「社会正義」から逃げることはできない - z0racの日記
何言ってるんだろう、この人。

これらは(勝手に要約してしまえば)、「個人的な「正しさ」を「社会(的)正義」として主張してはならない」という批判であろうが、

これがまず分からない。
この意見が導き出されたのが

4) しかし、自分の考える個人的な「正しさ」を、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」として主張する人がいる。私はそういうのは嫌いだ。

5) また、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」を勝手に想定し、自分ではなく世間や社会の要請として押しつける人がいる。私はそういうのは嫌いだ。

という点なのがさらに分からない。
嫌いだ、と言ってるだけじゃないのか。
どこに禁止のニュアンスがあるのだろう。
嫌いと禁止がイコールで結ばれるってどんな思想よ。

私の主張は全く逆である。「個人の「正しさ」を社会正義として主張せよ。」但し、社会正義を語る「いやらしさ」を自覚した上で、それを乗り越えなければならない。

恐ろしい。
これはつまり馬鹿が増えたら馬鹿が正義になる(恐れがある)という、まったくもって恐ろしい考え方だ。
集団の中で存在したいのなら集団の規律を守るのが第一のはずだ。
集団の規律を無視して個を訴えるのが社会正義ってそりゃ子供のわがままだろ。
校則破って喜んでる高校生の図がここでも出てくる。
もちろん、個を主張するなと言ってるわけではない。
主張すべきところは主張すべきだ。
ただ、「正しさ」など個が判断できるものではない。
なぜかその辺りのことはちゃんと書いてある。

個人の「正しさ」も絶対的ではないのだから、個々の「正しさ」は社会において衝突する。それ故、問題解決の指針として「社会正義」が召喚されるのである。この「社会正義」は何らかの集団合意に基づいて形成されると考えるしかないが、故に、個々人の「正しさ」からは常にズレるのである。そのズレを自己の主張に引き寄せることで、社会正義を語る「いやらしさ」が生じる。

しかし、それは致し方がないのだ。自身が「正しい」と思っていないことを主張することはできないし、かといって、誰も語らなければ現実的に召喚される「社会正義」は無批判のまま野放しになる。

その通りだ。
しかし、なぜここから

「社会正義」により治安を維持し社会生活を営んでいる以上、この「いやらしいが致し方のない行為」を誰かに押し付け*2、個人の「正しさ」の中に逃げ込むのは無責任であろう。

2ちゃんねる批判」をするのであれば、「いやらしさ」から逃げず、自覚を持って「社会正義」の名の下に行えばいいのである。特にリンチは社会正義に反するのだから。

こんな話になってしまうんだろう。
誰が押し付け、誰が逃げ込み、誰がリンチを行っているのだろうか。
言ってることが支離滅裂だ。

近々の問題として裁判員制度の施行もある。そこでは社会正義を語らなければならない。決して個人的な「好き嫌い」で判断を下してはならないのは当然であろう。

どっかの新聞の社説か?
個人が私的にblogで好きだ嫌いだと書くことと、裁判員という公的な人間が好き嫌いで判断するのと同一視?
さすがにこれは理解できないわ。


別にどんな意見があってもいいと思うんだが、それにはまず間違った解釈をしないってのが必要だと思う。
最近なんか知らんけど勝手な解釈、誤読、思い込みででかい声を出す人間が多すぎる。