イケハヤニ殺サレタ

ものすごく簡単に質問に答えた後、表題の件についてちょっとだけ書く。
kyoumoeさん、お返事ありがとうございます。なぜあなたは「死ね」という言葉を発信できるんですか? : まだ東京で消耗してるの?

?kyoumoeさんは「影響力がない人間は、ネット上で「死ね」と言っても問題ない」と考えているのでしょうか。ぼくはそう読みとりました。もしそうなら、なぜそう考えるのか、もう少し具体的に教えて下さい。

俺が書きたいから。

?あなたは、実際に殺すつもりがないのなら、「死ね」という発言をしてもいい、と考えているのでしょうか。もしも相手があなたの言葉を本気で捉え、万が一死んでしまったとき、あなたはどう考えますか?自分には一切の責任がないと考えますか?もしそう考えるのなら、それはいじめっ子が「死ぬとは思わなかったんだ」と言い訳をする姿と、どう違うのでしょうか。

知らん。
以上。


少しだけ補足すると、俺が個人に対して死ねと言ってるのは「相手が死ねと同等、もしくはそれ以上の言動をしている場合に限る」という基準がある。
例外は虚構新聞
あそこまで卑屈になるのは計算なのかどうなのかは知らんが、おかげで俺のところに死ねに近い言葉を持ったファンネルが多数襲来してきた。
結局虚構新聞は人を中傷するレベルの嘘をやめるわけでもなく、馬鹿はそれに疑問を持つこともないという最悪の結果になったので死ねといっていいレベルを引き上げた。
集団に対して死ねと言うのは「集団は死ねと言われても各自勝手に都合のいい解釈をする」という長年の経験に基づく。
まともな人間は自分は死ねと言われた対象ではないと自分で判断するし、馬鹿は死ねと言われたら発狂して攻撃してくる。
攻撃してくるような奴が死ぬとは到底思えない。
補足はここまで。


ああ、あといじめっ子の理論じゃないかという点に関しては「1回言ったくらいで死ぬような奴は他に原因があるに決まってんだろアホか」としか思わんね。
会ったこともない知らない人間に1回死ねと言われたくらいで死ぬような奴に配慮してたら何も書けんわ。
テレビ局に頓珍漢な抗議電話するような馬鹿の理論なんか知らん。




さて、表題の件について。
俺の言葉が悪いのは周知の事実だし、自覚もしている。
その上でただの悪口の塊にならないように配慮して文章を書いている。
死ね以外の文章に相当量の労力をかけているのも、ただ死ねと言いたいだけではないという俺の真意をわかってもらうためだ。
だからこそここを見ている多くの人は「口は悪いが」という前置きをつけつつも考え方としては賛同してくれることが多い。
当然賛同されないこともあるが、その場合俺は出来る限りの説明はしているつもりだ。
目標としてはtwitterはてブ、コメント欄合わせて7割以上の人に賛意を得られるようにはしている。
要するにかなり読者に迎合しているということだ。


そして、俺はコメント欄やはてブにつく「俺への批判」を利用してこのブログを完成させている。
よく「コメント欄が面白い」と言われるのは俺が意図して作り上げているからだ。
コメント欄とブログ本体、はてブtwitterを連動させることによって俺の主張は補完されるし、読む側も俺の主張が何であったかを理解しやすくなる。
その為に俺は強い口調で批判するし、それに対する反論もほぼノーカットで載せる。
簡単にいえば即興劇と同じだ。俺は俺を演じているし、参加者がいれば俺は俺という役割から逸脱することなく即興劇に参加させて舞台を完成させている。
それが俺がブログでアクセスを稼ぐために考えた自分なりの手段だ。


それをイケダハヤトは全く何も考えずに「上から目線の質問攻め」という手段で暴こうとしている。

ネット上の悪意ある人との対話は可能なのか、というテーマを模索しています。ちょっとこの記事は迂遠なエントリーですので、「ネット上の悪意ある人との対話は可能なのか」に興味がない方はご覧にならなくて大丈夫です。

俺はこの時点で「ネット上の悪意ある人」であり、「対話は可能なのか」疑問視されている人物ということになる。
影響力、知名度で言えば俺はイケダハヤトの数十分の一,数百分の一、あるいはそれ以下だろう。
そのような人物に「悪意があり対話が可能か危ぶまれてる人物」扱いされたら俺のネットの立ち位置なんかすぐさま「ソレ」に固定されるだろう。

そんな中で、「「死ね」と「ネットイナゴ呼ばわり」との間に何の違いがあるのか」という言及をいただいたので、ちょっと対話をしています。kyoumoeさんは、ぼくに死んでほしいそうです。これはお話しないといけません。

この時点で俺は「突然イケダハヤトの死を願い始めた、対話が可能かどうかわからないネット上の悪意ある人物」になった。
そして

あなたは「俺は反論も受け付ける。(中略)それが対話だろ。」と語っていますよ。ぼくはあなたに「死ね」と言われた張本人ですから、うんざりすると思いますが、まぁ付き合って下さい。ブログでやり合うのが難しければ、メールでもいいので。

これで俺の立ち位置とイケダハヤトの立ち位置が決まった。
俺が加害者でイケダハヤトは被害者である。
実際どうなのかは一切関係ない。俺は加害者と今決まったのだ。それに抗う方法などない。


この時点で俺は「被害者の質問に答えること」を強要されたことになる。
答えなければ「被害者の質問に答えない加害者」という更なるレッテルが貼られるだろう。
それを元に「被害者」は文章を書き、大多数の読者からの賛同を得、「加害者」の地位を相対的に下げることになる。
ただ、俺が質問に答えるということは、俺が自分の手で磨き上げた(と自分では思っている)武器と戦法を公開することになる。
武器と戦法、手の内を知られた戦士に戦う術が残されるというのか。
残されたとして、誰に敵うというのか。


メールでやればその辺りの疑念は解消されるが、そのメールが曲解なく公開されるかと言われればそうではないだろう。
事実、ブログの内容も少しずつ曲解されている。
あの内容で「ぼくに死んでほしいそうです」と書かれたら俺にはもう手段がない。


俺はイケダハヤトの質問に答えた。手の内も見せた。
それがイケダハヤトの言う「責任の取り方」だ。
被害者が望む責任の取り方で加害者は責任を取らなければならない。
俺は敢えてそれに従った。その結果、このブログを続ける手段は失われた。
これから俺が何を言おうと「これは即興劇なのだな」としか見られない。
そんなブログを誰が見にくるのか。俺は演劇のプロではない。


「死ね」と言わなくたって人は殺せる。強い言葉も必要ない。
「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい」なんて言葉があったが、ブログを殺すには地位と知名度さえあれば3日と言わず1日で殺すことができることを肝に銘じたほうがいい。




やがて幕が閉じる 憂鬱の中で
死ぬんだろう? 生きるだろう 何を捜して
そんな 嘘だろう 真実だろう どうでもいいさ



ということでこのブログは死にました。
「死ねと言わなきゃ死なないなんて考え方こそ奢りである」という俺の断末魔を持って終わりとさせて頂きます。
永らくのご愛顧、誠にありがとうございました。