http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20110915/1316054275
教えようとしていることが「大切だ」というのは分かるが、「面白い」というのはおかしい。なぜなら、「大切な教え」は、しばしば面白くも何ともないからだ。
なるほど!
もしドラがクソつまらなくてメディア戦略が大ゴケして笑いものになっている現状こそが「ドラッカーの教えは大切である」の証明になってるということなんですね!
あ、それじゃドラッカーの教えは面白くもなんともないってことになっちゃいますね!
面白い本もあるのに!
学生は「愚か」である。だから「学び」にきているのだ。「愚か」なことは学生の定義だ。なぜなら、学生は「自分を愚かだと認めたからこそ学ぼうとした」のである。そして、「自分を愚かだと認めた人間」でなければ、何かを学ぶことはできない。そういう心構えができていないと、何も吸収できないからだ。
さらには、「自分を愚かだと認めた人間」は、愚か者として扱うのが正しい。なぜなら、愚か者を愚か者として扱うことの中にこそ、本当の「教え」が宿るからだ(その理路は後述する)。
だから教師は、当然のこととして、全ての学生よりも賢くなければならない。もちろん、学生より「いいひと」でない可能性はある。「愚かだけれどもいいひと」というのはいるからだ。しかし、「いいひと」たろうとするべきなのは、言うまでもない。
知らないことを愚かというのなら人間は全てにおいて愚かであるわけで、学生も教師も平等に愚かであるわけだ。
教師は自分を愚かだと認めなければならないし、だからといって生徒が教師を愚かだと扱ってはいけない。
そんなのは「俺は馬鹿だけどお前よりマシ」という小学生の戦いのようなくだらなさでしかないわけで。
全知全能の神でもない限り、教師や学生といった肩書きで愚かだなんだと判断するのは間違ってるんじゃねえの?
教師は、セールスマンではない。学生に情報を売っているわけではない。学生には「教え」を「授け」ているのだ。だから「教授」なのである。
「授ける」ということは、むしろ「施し」に近い。乞食(あるいは仏教で言う「こつじき」)に、施しをするようなものだ。だから、学生の興味をセールスマンと同じように引きつけたり、保たせろというのはナンセンスだ。乞食に施しを受け取ってもらうため、「声、ジェスチャー、黒板、ハンドアウト、パワーポイント、漫画、アナロジー、メタファー」を利用する人がいるだろうか? これでは順番が逆である。まず、彼らが教えを乞うてきたのだ。だから、それに応えて授けるのである。「声、ジェスチャー、黒板、ハンドアウト、パワーポイント、漫画、アナロジー、メタファー」を利用しなければならないのは、むしろ教えを乞う学生の方である。
何を目的にしているかの考え方の問題だろうな。
「学生に多くの知識を養ってもらう」のと「愚かな学生に知識を授けてやる」のでは目的が違う。
前者は自分より出来る学生は善だが、後者では悪になる。
自分より愚かでない人間の出現が喜びとなるか否かの違いは大きい。
彼は後者なので学生が下でなければ困ると言ってるわけで、まあ人間がちっちゃいですね、と。
大金を払っている学生などいない。ほとんどは、親や自治体が払っている。だから、目の前の学生に教えを授ける時、授業料のことは考慮しなくていい。それは、彼らが払ったお金ではない。彼らは、自分のお金を使わず、タダで聞いている。その意味でも、彼らは乞食である。
しかしながら、それとは別に、正しい教えを学生に授けるのは教師の義務だ。なぜなら教師とは、「学生の乞いに応じた者」だからだ。一旦応じた以上、そこには正しい教えを授ける責任が生まれる。それは、施しをする人が、正しく施さなければならないのと同じである。
仮に自分で金を払っている学生がいたとしたら、その学生の足でも舐めながら授業をするのだろうか。
というか、「誰かが金を払っている」ことから目を背けているとしか思えない。
お前さんに給料を払っているのは誰だ。その金はどこから来ている。
自分に合ったスタイルなど築かなくても良い。たとえ自分に合っていなくても、教師として正しいスタイルを身につけるべきだ。
教師の人格否定まで始めた気がするがもう突っ込まない。
学生にとって、精神的には近づきにくい存在であった方がいい。しかし物理的には近づきやすい方がいい。そのアンビバレンツの中にこそ、質の良い「学び」が発生する。
学生の名前を覚え、名指しで叱咤しなさい。そこに厳然たる壁を作りなさい。しかし、教室には授業開始数分前に着き、授業終了後もしばらくそこに留まりなさい。その時、精神的な壁を乗り越えてアプローチしてくる学生がいたら、彼こそが真に学ぼうとする人間である。
精神的に近づきたくない人間から何かを教わりたいと思うか?
逆に言えば、何かを教わりたいと思った時点で精神的には近づいてるのではないか。
「うわーこいつ腹立つわー死ねばいいわー、一刻も早くこの場から抜け出したいわー、でもギザ貪欲に学ばせていただきます!」ってキチガイじゃないかそれ。
授業を延長する必要はない。それは、「もっと教えてほしい」と乞う学生に対して、「世の中そんなに甘くない」「有意義な時間は長くは続かない」「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということを教えるためである。
オーケー、まずは「時間内に仕事を終えなさい」と「時間が来たら仕事をしなくてよい」の違いを理解するところから始めようか。
「『難しい』とはどういう現象か」ということを考えるのが教師の仕事だ。だから、自分では自明だと思っていたことを難しいと考える学生がいれば、それは「学び」というものの本質をとらえるチャンスである。そのタイミングを逃してはならない。自明なことを難しいと考える学生には、とことんつき合うと良い。
教師は愚かじゃないから学ぶ必要はないんじゃないのか。
本質を捉えるとかじゃなくて本質を知ってるからそんな態度でいられるんじゃないのか。
知らないことがあるのに偉そうにしてたのか、人を乞食呼ばわりしておいて。
「無知」と「愚かさ」を混同する必要はないが、学生が「愚か」であることは忘れてはならない。くり返すが、「学び」は「自分を愚かだと認める」ところからスタートする。そのため学生は、すべからく愚か者なのである。
そしてまた、愚かな者は愚かな者として扱わなければならない。なぜなら、愚か者を愚か者として扱うことの中にこそ、本当の「教え」が発生するからだ。
それは「8」とも関連する。学生を愚か者だと認めると、自分にとって自明のことを学生が難しいと感じることも、腑に落ちてくるのである。
「学生は、『愚か』だからこれを『難しい』と感じるのだ」
すると今度は、「ではどうすれば、愚か者がこのことを理解できるようになるだろう?」という問いが自然と想起される。その瞬間に、「自分にとって自明のこと」は一旦置いておく必要が生まれる。そうして、愚か者(学生)の立場に立って、そのことを「難しいこと」として考えられるようになる。そうなった時に、「難しいことを理解するためにはどうすればいいか?」という、とても重要な問題が提起される。これが「学び」の正体である。
えーと、今までそれを説明されてたと思うんだが聞いてなかったのかな?
何で自分が解明したみたいな話になってんの? 何なの?
もし学生が理解できないのであれば、そこにはさまざまな要因があるはずだ。その要因を考えることこそが、「学び」(と「教え」)が発生する現場である。それを、「学生のせいではない」と決めつけてしまうのは、客観性、公平性を欠く。「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、客観性、公平性を欠いた考え方は、謙虚を通り越してその人を卑屈にさせ、ものごとを失敗へと導く。
「学生のせいではない」と決めつけることによって自らを省みることができるよってことだと思うんだが。
お前は「俺が就職できないのは社会のせいではないと決め付けるのはおかしいのではないか」って自分に言い訳してるニートか。
「学生のせい」ということも十分にありうる。「無知」は仕方ないにしても、「怠惰」や「傲慢」からくる無理解は、けっして許してはならないはずだ。
これに関しては後で書く。
これは真実よりも間違いにずっと近い。そして上でも述べたように、「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、「これが真実であると心底信じているかのように行動」することは、けっして良い結果を生まないだろう。
なぜなら、「悪い学生はいない」という前提に立つと、彼らの全てを肯定せざるをえず、彼らの怠惰さや傲慢さも、甘んじて受け入れなければならなくなるからだ。そうなると、本当に悪い学生はそれこそ救いようがなくなる。また良い学生に対しても過度に卑屈になり、生き生きとした教えを授けることができなくなる。やはり、悪い生徒は悪い生徒、良い生徒は良い生徒と、客観的に、公平に判断し、接することがだいじだ。
要するに努力したくないんですね、と。
こいつは怠惰だから駄目だ、で終わらせたいんですね、と。
書いてる途中で気づいたんだが、彼は完全に勘違いしてるよね。
これは「学ぶ側」に向けて書かれている文章だということを彼は完全に失念している。
教師の心得 - bluelines
アメリカの大学院で、「Professional methods」という授業を取ったことがある。言語学の専門家として食っていくためのあれやこれやをひたすら教わるクラスである。学会での発表の仕方、ジャーナルペーパーの書き方、CVの書き方、就職活動などなどのトピックをこなして、「教授法」が取り上げられた。このエントリで取り上げるのは、「教授法」の回に先生が配った「教師の心得」である。
要するに、学生が「教師」を学ぶための教材なわけ。
当然「お前が全力を尽くせ」という内容になるに決まっている。
教師が「教師」を教えるときに「学生という乞食に教えを施してやれ」とか書くわけねえだろ、アホか。
もう前提からして間違ってるのでそりゃボロカスに叩かれるわというお手本のようなクソ文章になっているわけであります。
つか、「アメリカの大学院」の「言語学の専門家として食っていくためのあれやこれやをひたすら教わるクラス」の資料に対して
ぼくは、エンターテインメントの制作者を本業としているものの、誰かに何かを教えてきたケースは多い。お笑い学校の講師をしているし、『課外授業ようこそ先輩』では小学生相手に小説の読み方を教えた。セミナーで話すケースも多い。
その中で、多くのことを発見した。自分が学生だった時のことも含め、「学ぶ」とは何かということを考え、見つけてきた。
とか言える厚顔無恥さは逆に感嘆してしまう。
あれか、冷たい頭にカチンと来たのか。
こんばんわ。今回ブログを更新したのは、いうまでもなく文句です。
私が「学ぶ」ということを知ったのはたった8ヶ月前で、これを読み始めたのもたった5ヶ月前です。
今まで静かに、かつ、冷静に読んでいました。でも、もうダメです。限界。
先週以前のことは水に流しましょう。でも先週のは、私の冷たい頭にカチンと来ました。
「もし学生が理解できないのであれば、それは学生のせいではない。これは当たり前に思えるが、驚くほど忘れ去られやすい」
教師の心得の一項。「学生のせいではない」って何? ねえ、何?
私はお笑い学校の講師を2,3年してきました。その2,3年の間でも、「学生のせいではない」という人を見たこと、いや、聞いたこともありません。教師はジョーク・洒落が分かるのがウリですが、私には通じませんよ、そんなのは。
アメリカの大学院は大変だけど、エンターテインメントの制作者を怒らせない程度のネタを考えておいてください。お願いします。
うわー、思った以上にしっくり来るわー。21世紀のラーメン大好きさんだわー。
冷たい頭にカチンとくるわー。
まあちょっと半笑いで読みましたが面白かったですよ、あなたの文章。
面白かったですよ。面白かったんですよ。
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